忠義者たち 其の参 本多正信殿 クールゆえに優れた主君を必要とする男。

真田丸に登場した家臣たちを勝手にポエジーに語るシリーズ。

第三弾は本多サドこと、本多正信公です。官名が佐渡守なんだけど、カタカナ表記の意味するところの方が正しい感じがする稀有なキャラですね。

というのは、作中では真田昌幸をしのぐ知謀の持ち主、史実でも松永久秀をして「非常の器」と言わしめた無双の才覚の持ち主であるから。

ではそんな本田サドが家臣としてはどうだったかというと、「真田丸」の中では珍しく、主引っ張って行く兄貴分の家臣でした。引っ張って行くというか、先んじて道路舗装をしておく感じの家臣でした。

画像転載元:nhk公式サイト

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一度は主から離れた男

真田丸の人物造形はよく設計されていて、一人としてキャラが被っている人間はいないし、かと言って一人として突飛な人間はいない。

みんな他人と似たところを持ち合わせつつ、裏にしたり表にしたり、持ち合わせをずらしたり。

まるで星座のようで面白い。

(三谷さんは項目を二人の人物に分け与えて対照的に表現したり、ちょっとずつずらして複数人に与えたりする。そしてそんな人物が出会うところで起きる出来事は化学反応のようだ)

太閤秀吉、千利休と同じく、大変怜悧な人物である正信は、直江山城や石田治部のように強烈な忠誠のアピールを持たされない代わり、主人の才覚に相応しい座を用意するという家臣像になった。

多くが主人に付き随い支える家臣である中、彼だけが主君を先導しうる家臣として描かれる。

画像転載元:nhk公式サイト

真田丸に限らず、時代劇や歴史ドラマで表現される家臣たちの忠義行動は、私には確信に裏打ちされた儀式的なものに見えるのだけど、正信はその儀式性もまた薄い。

それは彼に一度若い家康の元を去ったという過去があるせい、というか、そこをうまく解釈して造形してるんだろうと思うのだけど、それは、彼にどこか近代人としての印象を与える。

この時代のことだから個人主義ということはないけれど、決して全体主義者ではない。昌幸が「軍を塊と思うな。一人一人が思いを持っている」と言ったように、正信も常に案件ごとに最適解を探す。その深い思索と家康や秀忠への微妙な距離感が、合理性や意思的な思考を経てのものとして現れる。

それらが家康の参謀という正信のリアリティも担保する。ユーモアを含みながらも飄々とした近藤正臣さんの演技との相性もいい。

のだよね。よくできている。

正信は秀吉や昌幸が家臣として生きた時のIFの姿なのかもしれない。

秀吉や昌幸とちょっと違うのは、慈しみを示す時にちょっと照れるところかな。合理的であるがために己への客観視も半端ない。だからこそ生きて行くために自分の才覚を託す主君を必要とするところ、よく表現されている。

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