14回「徳政令の行方」どうしても愛が受け入れられない、という呪いor修行。

最初に書いておくと、今回の後半、ドラマのクォリティが急激に下がったと思われる箇所があり、そこだけはどうにもこうにも改善してほしいと思っています。

これまで役者さんの演技と、入れ子構造にも思われるしっかりした伏線で引っ張ってきた物語が、急にガタガタッと崩れて、過去のいくつものトラウマを想起させられて唖然としてしまったよ。

ただこれについてはドラマを楽しんだ人もたくさんいたと思うのでもう言わないでおくね

FB支店の方に書きました)

この回で一番重要なことは、まるで何かの呪いのように、どうしてもおとわに思いが通じない、小野政次が不憫だったことだし。

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何かの修行なの?

前回、直虎は方久を家臣に取り立てることを決め、瀬戸村・祝田村を方久の所領とし、借金の返済を猶予する代わりに村人が借金を返せるよう面倒を見るように言い渡した。

小野但馬は中野Jr.、奥山六左衛門を通じてしのを取り込み、直虎を孤立させて失脚させようと目論む。

それは直虎を陥れようということじゃなくて、今川との政治的な緊張を恐れない直虎を案じて、もっとばっさりいうと愛する女を矢面に立たせたくないという政次の想いから出たことなんですね。切ない。

しかし何をどう頑張ってもおとわに想いを受け取ってもらえないというか、おとわの視界の真ん中にどうしても立てないというか。

最初は愛が叶わない呪いなの?って思ったけど、呪いよりも根深いものに思われてきた。

人魚姫っていう乙女感満載の童話があるじゃないですか。

あの作品は作者アンデルセン本人の失恋体験から生み出された作なんて言われてるけど、なんかね、鶴を見ていて初めて思ったけど、つまり、どうしても受け入れてもらえない愛の悲しみ、なのではなく、愛が受け入れられない、という修行なんじゃないかな、人生の。

前世からの因縁レベル

因縁というのはつまりですね、西遊記で三蔵法師が天竺に行くことになる。でも前々々世で仏教の教えを軽んじた報いを受けて苦労することが予言される。あれですよ。

しかも、

「ああいう輩は厄介ですぞ」「知っておる、昔から」

と目を揺らしながら言う政次が、次郎が亀の魂と結婚したことを知らないっていう、鬼の脚本がまたきっつい。

それとも呪いがかかってるのは次郎様の方なの?

政次の思いには一向に気がつかないけれど、リアルな亀の姿で現れた直親の思いにはすぐ気がつく呪い。

スイーツというかオーガニック

目的のためなら泥水を啜ることも厭わない硬派なイケメン次郎さまには、鶴の愛はスイーツすぎる、しかし、鶴の愛は普通の人にはオーガニックすぎる。

修行ですよ、これは。

そして政次の想いは、寿桂尼様には見破られてる気がしてしょうがないよ!怖いよ!

…と書いてきたところで、途中の低クオリティ問題に戻っちゃうんですが、政次のところだけ普通にいつもの直虎だし、政次と次郎、政次と寿桂尼の関係の描写はとてもよかったんで、この回はもったいなかったと思います。

予告の編集がやけに面白かったのも期待値がん上げだったかもしれない。

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