最終回「(無題)」歴史という暗い河から立ち現れるきらきらと美しいもの、私はそれをずっと見ていたい。

最終回。語られたのは常に敗者の物語。

画像転載元:nhk公式サイト

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敗者とは

真田丸は敗者の物語だった。

農業・産業社会での競争は対抗戦なので、より大きな勢力についた方が勝ちなのだけど、この社会構造は必然的に多くの敗者を生み出す。

(現在は情報化社会への過渡期なので、少しずつ個人戦に移行しているが、未だ前時代の価値観や構造が優勢である、かなり)

真田丸で語られたのは常に敗者の方だった。

幸村の中には、敗者を生み出す構造、運命に対する怒りや、未練・心残りが降り積もり続けたように私には思われた。

幸村の中では敗者となって散っていった人々、滅亡の極に立たされる人々は、決してみじめな存在ではない。彼らへの愛情を武士として表現すると、「相手の首魁への復讐=家康の首を取る」ということになってしまう。

果たしてこの復讐を「愛と勇気」と呼んでいいのか、私にはわからない。愛情に立脚してるし、勇気がないと果たせないものではあるが。

最終回では、敗者が最後に抱く希望と、復讐の成就が合致してしまったやるせなさがひっそり描かれたと思う。

画像転載元:nhk公式サイト

お馬さんたちがチベスナ顔になってるのが可愛い。お疲れ様。

天下を取った男

で、そんな幸村を、対峙する家康公が認める。

幸村の行動のベースにあるのは復讐(怒りと敗死していった親しい人々への愛惜)であるけれども、それを磨き抜いた結果、語り継がれるような武勇を残した。その昇華を、家康公は認める。

幸村の「お前の首を取ることが、自分の愛と望みの成就である」は、悲劇としか言いようがないのだけど、それを天下泰平を受け継ぐ秀忠が阻止する無情は、中世の自力救済とか実力主義とかいう混沌が終焉していく、見事な暗喩だった。

かくして中世の混沌を背負う幸村は、近世を前にして歴史に帰っていく。

無情

真田丸では人の死を割合あっさりドライに描き、通常の大河のように死や死者の影響を情緒豊かには描かなかったけれど、返って余韻が生まれたように思う。

死に様を描かれた人も、描かれなかった人も、どの人もドラマの終わりとともに役目を終えて、歴史という暗い河の中に帰っていった。

というか、暗く流れる歴史という河の中から、このドラマのためにキラキラしたものが立ち現れて役者さんたちに宿り、また消えていったかのようだった。

歴史という無情な、厳しいものから現れるそれは、なぜかいつもとても美しいので、私は大河ドラマをずっと見ていたいと思うのだなあ。

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見て思ったのだけど、完全版はね、やはり放送版と違うのだよ・・

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