「前夜」サラリーマンから、自らの望みに向かってひた走る、気高い魂になっちまって…

真田丸には「組織に所属して生きる辛さ」が、たくさん散りばめられていたのだけど、あの辛さへの共感が中盤の牽引力だったのは否めない気がする。

画像転載元:nhk公式サイト

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社畜に辛い大河で

社畜って言うか人間の集団は、会社でも家族でもすべて運営する人次第だから一構成員はだいたい辛い。

幸村は常に一構成員なんだけれど、自分の生きた証を世に残すという望みを得てからは、社畜ではなくなってしまう。

自分の望みと、父親の望みと、豊富家の誇り高い存続という目的が合致してしまい、彼はそこに向けて走らないわけにはいかなくなる。

幸村になってからのコスプレ感は、自己劇化の表現だと思うんだけども、飾り立てれば飾り立てるほど、望みに向かって研ぎ澄まされ、彼自身が剥き出しになっていく。

こんなもんだろう、という呪い

少年時代、自分の才覚なんてちっぽけなものなんだと挫折してからは、周囲の希望通りに振る舞う「如才ない」男になった信繁。

周囲の希望通りに振る舞う、周囲の失望を買わないよう、自分自身を小さくまとめていく信繁が女性と向き合えないのは当然で、というか、彼は自分自身にも向き合えないのだけど、ここは父親と対照的で面白いところだった。

自身の望みのために常に世界の隙間を探している昌幸は、自分自身を見失うことがないからポンコツを含めても偉大だったのに対し、信繁は周囲の圧に答え続けていくうちに、どんどん小さくなってしまった。

周囲の「よくやった」を報酬にしていた彼は、「これでいい」「こんなもんだろう」と、相手の器の中にあえて収まることで、自分自身を失っていく。

再生

そんな信繁を再生するのが女性たちだったというのは、どこまで意識しての構成かわからないけれど、すごくよくできていた。

信繁の死と再生が九度山編の構造だと思うのだけど、九度山は宗教的な空間で、信繁は社会から一度切り離される。

きりちゃんのあの怒涛の背中押しの前に、たかちゃんの前触れがある。

自分を助けてくれた人のために、自分を大切にして人生を精一杯生きる、というたかちゃんの気高い魂に出会い、常に愛する人のために生きることこそが偽りない自分の望み、というきりちゃんの魂によって、信繁は再生して真田幸村になる。

(春ちゃんは直接再生には関与しないけれど、幸村になって以降は関係が改善する)

信繁は自身の望みを得てようやく周囲の人間の望みに本当に向き合えるようになる。

豊臣家の存続だけを考えるなら、幸村は間違っていたかもしれないし、彼の存在は豊臣家にとって不運だったかもしれないけど、もう幸村は誰かから見た自分というものを気にしないし、失敗するかもしれないという未来すら、関係なくなっている。

自分自身を信じてやれることを全てやるだけ。

画像転載元:nhk公式サイト

自己劇化の天才である政宗公は、自分と同じような存在になった幸村の裏側の虚心というか、素直な、わだかまりのなさを理解するし、魅せられる。

政宗に話を通すことができるところまで研ぎ澄まされ、ようやく源次郎はきりちゃんを愛することができた。きりちゃんは先に磨き上げられちゃって、ずっと待ってたわけだけど、ギリギリで源次郎も仕上がった。

という風にね、私には見えました、49回。

だから遅かったけどね、間に合ったとね、思ったんですよ。良かったねきりちゃん。あと政宗がかっこよすぎて死にそうでした。

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