伏線を張り続けることの大切さ。何故サヨナラ回に急に盛るのが普通だったのか。

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そういえば、室賀さまの回を見ていて思ったことなんですけど。

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何故急に持ち上げる?

大河ドラマって、サヨナラ回に急にその人物を持ち上げ始めることが多くありませんか?

私は昔からあれがどうも苦手でした。

白々しいというか、退職が決まった人をご祝儀的に持ち上げる話みたいで微妙だなあと思っていました。

近年甚だしかったのは「平清盛」で最初の正室だった明子(高階氏の娘)さんの病死の回とか、弟の家盛くんの死の回でしょうか。

清盛では、のちのち義朝の妻である由良御前が複数回をかけて誇り高く死んでいきましたから、ドラマ序盤で脚本と制作がこなれてなかっただけかなあとも思うのですが。

そう、由良御前のように、少しずつ伏線を張って、その人物が死んだときに喪失感を感じるように描写していけばいいのに、どうしてそれがスタンダードにならないのか、不思議だったんですよね。

連続して作ってる→どこかで誰かの死は必ず入るはず。だったらそこに向けて作り込めばいいじゃない?

これはそんなに難しいことなのだろうか…

作る側、見る側の思い込み?

最近思うのですが、これは、作る側・見る側両方が、「そういう風に作るもの」「かくあるべし」と思い込んでいるだけなんじゃないでしょうか。

退職する人を持ち上げるのと同じで、舞台から去る人を気持ちよく送り出そうとしているだkって感じがするんですよ。

この際そういう思い込みがドラマに影響を与えるようなことからは卒業したらどうでしょか。

その点、真田丸の室賀さまは、少しずつ人物の描写を変化させ、自然に視聴者が持つ印象をコントロールさせて最後を迎えさせるのが大変秀逸で、思い込みのドラマ作法からの卒業を望む気持ちを強くしましたね。

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この他、大河ドラマに対する批判としてよく見られるものに「主役が目立たないからつまらない」というものがありますが、この「主役だからドラマの中心で目立ってなければならない」というのもまた、思い込みである気がするんですよ。

まあそういう主役像もあると思うんですが、何かあったときに立ち戻るところ、一種の定点みたいな人が狂言回し的な主役になるというのも充分ありありです。

映画ならともかく、長編の連続ドラマであれば特にそうだし、ましてや歴史ドラマにおいては、史実をベースにドラマを組んでいくのだからから、目立たせるための無理な捏造エピソードこそ不要。

長編ドラマは群像劇の方がずっと見応えが出ますし、主役じゃないからこそちょっとおかしな人物やエピソード不足の人物を魅力的に描けるっていうのもかなりのメリットですから、それを捨てる必要は全然ありません。

主役を張るからには、人間的な魅力や能力の高さ、健やかな心映え、あるいは暗い過去など、見ている方が気持ちよく感情移入できる条件が必要ですけど、だからといって常に物語の中心である必要はないし、ましてや常に目立っていなければならないというものではないんじゃないかなー。

とにかくこの「かくあるべし」という思い込みは、何にとっても危険だな、と思うのでした。

「ドラマにおける話の展開ってこういうもんじゃないの?」という思い込みに、作る側があまり考えもなく依って立つと「おにぎり燃ゆ」が出来ちゃうという、いい実例がね……。ああ、またおにぎりをdisってしまった…

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